知のリレー

先日、とある先生とフィールドにご一緒しました。
その先生が20年前に書かれた岩波新書を、13年前の私は読んで、それがきっかけで付加体の研究をやっているようなものです。

いろいろあってとても楽しかったのですが、自分のフィールドをお見せできたことと、教科書を書き換える舞台となった手結メランジュにご一緒できたこと。これらは私にとって、忘れられない思い出になると思います。
この感動を言葉であらわすのは難しくて、言えば平凡になってしまうのですが、こうして学問というのは、知のリレーのように連綿と受け継がれていくんだな、という。
そのことに対する敬虔さのようなものを感じました。と同時に、大きな責任も。

変わりゆくもの・変わらぬもの

H大の室戸の実習、コアスクールのチューター、論文、実験等でばたばたしていました。明日から3日間は巡検、そのあと変成岩シンポ、東京出張で、あれよという間に3月が終わってしまいます。合間には各種飲み会が立て込んでいて、この1週間で4人の方が記憶を飛ばすのに立ち会いました。高知の飲みは人を壊します。


…というのはまぁ、締め切りを大幅に過ぎてしまった言い訳なわけですが、リレーエッセイの依頼を受けて呻吟すること1か月。ようやく書き上げたので、こちらでも紹介させていただきます。

http://relayessay.seesaa.net/

「変わりゆくもの・変わらぬもの」


やわらかな南風とともに、本州よりもひと足早い花の季節が南国土佐にやってきました。タンポポオオイヌノフグリ、菜の花、コブシ、そして桜。博士課程を修了し、ポスドクとして高知大学に赴任した私が、この町で迎える初めての春。


春は、出会いそして別れの季節です。この小文を書きながら私も、過去幾年ものこの時期の記憶を脳裏に描いています。所変わっても変わらず咲き誇る花の姿に、いつかの春の情景や風の薫り、同じ時を過ごした友の顔、会話の内容まで思い浮かべ、ひとしきりの感慨にふけった経験のある方は少なくないでしょう。「さまざまのこと思ひ出す桜かな」と芭蕉が320年前に詠んだように、私たちは季節の循環性と同位相性、そしてその中の不可逆的な時間変化を、花に重ねています。


ところで、私たちの感じる時の流れというのは実におもしろいものです。1日の中に昼と夜があるように、1日という単位では時は循環する。数週間や数カ月という単位では、暖かくなったり、寒くなったりというように、ある方向性を持って時間発展する。1年という単位では、春夏秋冬が繰り返す。いっぽうで数年や数十年単位では、それは私たち自身の視点が変わったり、街の様子が変わったりするからなのかもしれませんが、なにやら時間発展しているように見える。
季節が移ろいゆくこと、それ自体の美しさを、680年前に兼好は「をりふしの移り変わるこそ、ものごとにあはれなれ」と記しました(徒然草第十九段)。循環、もしくは振動する事象と、時間発展、あるいは進化する事象との織りなす「あや」のようなもの、それが私たちの住む世界の美しさを作り上げているのかもしれません。



私は理学の中の地球惑星科学、とりわけ地球のことを物質科学的に扱う、地質学という分野を専攻しているのですが、地球についての研究、なかんずく観察・観測に基づく研究を行う中で、気がつけば重奏低音のように響いてくる問題があります。それは、対象の時空間スケールをどう扱うか、ということです。


たとえば、ある人がどこか対象とする地域に地震計を設置して、地震の観測を始めたとしましょう。その際に、M7の地震はその近くでは10年経っても起こらないかもしれません。そして11年目にM7の地震が起こったとする。では、それまで10年分の観測記録と、地震が起こったわずか数秒の記録とは、なにか本質的に異なるものなのでしょうか。あるいは、その10年の間に、M6の地震なら複数回起こるかもしれない。その記録から得られた解析結果は、そのままM7の地震に応用できることなのでしょうか。


また、ある人は岩石が露出している崖(露頭といいます)から石(サンプル)を1個研究室に持って帰って、顕微鏡観察用の薄片を作ったとします。持ち帰ったサンプルには、その露頭の中でその石を選んだ必然性があるのでしょうか。仮に露頭から無作為に2個サンプルを抽出したら、サンプルAとサンプルBでは全く同じ鉱物や組織が観察されるのでしょうか。あるいは、もっと広い数kmスケールの地質構造の中では、その露頭と別の露頭では全く同じ現象が観察されるのでしょうか。


これらの問題が研究を行う上で重大な意味を持ってくるのは、たった1つの例外的なサンプル、たった数秒の観測から得られた結果が全体にあてはまると解釈した場合、議論の全てが水泡に帰すことになる可能性を孕んでいるからです。上に挙げた全ての問いについて私は、「時と場合による」という以上の答えを見いだせていません。
結局のところ、スケール依存性というものがあることが問題なのです。自然界は決して理想化された均一なものなどではなく、反応や物質移動が複雑にからみあって、特徴的なスケールとその間の階層性を構成しており、おそろしく不均一で多様な現象が観察されます。観測科学において通常は、ある階層の中では均一であるという仮定のもと、観測する範囲を対象とするものの特徴的スケールよりも広げることで問題を解決しようとしますが、それでもカバーできない場合もあります。そもそも、対象がどんなスケールを持っているかがわからない場合も多い。しかし、あるスケールで観測されたものが一般的な普遍性を持っている場合もあります。スケールに依存しない現象の場合、または自己相似すなわちフラクタルと呼ばれる構造をもつ場合です。


観測とは、たいていの場合恣意的なものです。なぜならそれは、観測対象だけでなく、観測する主体の側、すなわち観測機器や人間の性能を反映した時空間スケールに強く規制されるからです。私たちの身長はたかだか1.8m、平均寿命も80歳そこそこです。なので、空間的にキロメートルを超えたり、ミリメートルを下回ったりするような規模の現象を、機械を使わずに感知するには多大な労力を要します。時間的にも、0.1秒以下で終わってしまうようなものや、逆に1000年を超えるような現象は、日常的な時間感覚だとなかなか理解しがたいものがあります。
一方で、地球惑星科学が対象とする範囲はあまりに幅広く、空間的には原子サイズから太陽系サイズ、時間的にはゼロから50億年サイズまでのものを扱います。そのために電子顕微鏡があり、ロケットがあるのです。地質学者は地球上のあらゆる陸地、時には海底までも這いまわって地質調査をし、地球物理学者は、地球上や地球内部や大気・海洋、宇宙空間のありとあらゆる現象を観測しようとしています。そうして得られた、しかし群盲象を撫でるかの如くまだまだ不完全な知の蓄積が、現在の地球惑星科学です。
それはあまりに茫洋として私たちの日常からかけ離れていて、人によっては、そこまでして知らなくてもいいことと感じられるのかもしれません。



地球上のさまざまな現象のもつ多様性と普遍性、春の訪れに感じる循環と進化。そこに共通するのは、対象と主体の双方がもつ特徴的な時空間スケールの存在と、変わりゆくもの・変わらぬものが同居する自然の豊かさです。時間・空間の呪縛から完全には逃れられないなりにも、それらのことを感じようとする人間の営みに、本質的な違いはないと私は思います。そしてそのたゆまぬ営みこそが、時と場所を超えて共通する、私たちの得た知性の一側面なのではないでしょうか。

発表会の季節

昨日は修論の、一昨日は卒論の発表会があり、昨日はその打ち上げの飲み会が市内で行われました。
卒論・修論に関して、私はセミナーで各人にちょっとしたコメントを差し上げたぐらいのお手伝いしかしていないので、あまり偉そうなことも言えないのですが、この時期の学生さんというのはほんとうに柔軟で、ものすごい伸びを見せてくれます。1回目の発表練習の時には、正直、大丈夫か?と思った発表でも、2回目には言われたコメントを取り入れてすぐに修正し、かなりまともな形になっていて、感心しました。
(なぜもう少し前から始めないのか、という批判は、私自身がさんざん言われてきたことですのでしません)
3時まで飲んだ最後のほうには、学生さんたちの大部分が寝てしまったというそのことこそが、彼らの不眠不休のがんばりの証しです。お疲れ様でした。


私が卒論生のとき、発表会の直前に指導教官に言われたこと。
「自然のとんでもない豊かな現象を人間の言葉にして聴衆に紹介するという点で、君たちは自然と人間をつなぐ、いわば伝道者なんだから、その矜持を持って堂々としゃべりなさい」
伝道者という表現が若干ひっかかりましたが、確かにその通りで、以来、発表練習で自信なさそうなプレゼンをする後輩には、私もこの言葉を伝えることにしています。


今日は帰りぎわにちょっとしたことを思いつきました。これで、一見矛盾する2つの結果がうまく説明できるはず!(まだ計算してないけど)

15年

あの日は確か連休明けの火曜日。夜明け前のまどろみの中、大きく揺れました。停電。続く余震。ラジオは震源明石海峡であること、神戸市内で怪我人が出ていることを報じていました。明るくなってご近所に様子を聞いてみると、どうやら地下鉄は動いていない模様。西宮にあった学校に行くことは無理な様子でした。
昼前に電気が復旧。テレビを点けたその映像を見て、息をのみました。倒壊した高速道路、広がる火災。未曾有の大災害が起こったことを理解するには、しばらく時間がかかりました。その日の午後、神戸の空は焦げ茶色の雲に覆われていました。

水汲み、疎開、学校再開、避難所、代行バス、御影の乗り換え、電車の開通、仮設住宅活断層、震災の帯。いろいろありました。神戸の街もずいぶん変わり、私自身も大きな影響を受けて地球科学を志しました。
薄れつつある当時の記憶に、15年という時の長さを感じずにはいられません。いま振り返ってみて思うこともまたいろいろありますが、あえて今日は何も書かないでおきます。

合掌。

ニューイヤースクール

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
更新が滞っておりましたが、この間、学会でサンフランシスコに行ったり
巡検に行ったり飲んだりしておりました。
おかげさまで元気でやっています。


「第8回地球システム・地球進化ニューイヤースクール」(NYS8)が、
http://quartz.ess.sci.osaka-u.ac.jp/~earth21/school/gakkou/gakkou.html
先週末の土日に代々木のオリンピックセンターで行われました。

私は今年から事務局の一員となって運営に携わりましたが、とても楽しかったです。
今年は実は、新体制になって初のNYSで、不安材料もいろいろとありましたが、
講演者・参加者の双方から、楽しかった、刺激的を受けた、素晴らしかった、
つながりが増えた、こういう集まりに来て初めて一回も寝なかった、
等々、ありがたいご感想を、口頭でもメールでもたくさんいただきました。
やはり、楽しいというのが最大のモチベーションです。


とはいえ、NYSはもはやそれなりの影響力をもつ団体になってしまっているので、
やるからには何かそれなりのことを伝えなければなりません。
同期の畏友(=飲み友達)kawagucchi氏のブログに「ぬるい」と書かれてしまいましたが
(2日目も来てから言ってよ〜)、
http://kawagucci.blog.shinobi.jp/Entry/1297/
まぁ彼のことですので、蕎麦に七味唐辛子をふりかけるみたいな感じで、
バランスをとるためにあえてスパイスとして仰っているのでしょう。
私もたいがいなあまのじゃくなので、気持ちはわかります。


以下、事務局の意見ではなく、個人的な意見になりますが、
まず、地球科学とは?というのを考える企画は、ぜひやりたい。
ただ、あまりにメッセージ性の強い、賛否が二つに割れるようなことを
派手にやるつもりはありません。
目指すものは、最大多数の最大幸福です。
しかし、少数意見や極論を決して否定はせず、包含していく、
これは重要なことだと思っております。
「こういうの、おもしろいね」という方向性は示しつつも、
「ま、それと全然違うこんなのもありだよ」という多様性も示していけたら、
というのが私のスタンスです。
そういうメッセージは、自ずと浮かび上がることでしょう。
そして来年は、地球物理の人をもっと呼びたいと思っています。


とにかく、やれば伝わって、何か残る。
楽しかったです。講師の皆さん、参加者の皆さん、そして事務局の皆さん、
どうもありがとうございました。

最近の写真から

前回まで暗い日記が続きましたので、気分転換に美しい露頭の写真をどうぞ。


横浪メランジュ。チャートの壁。



意外とちゃんと残ってた手結メランジュ。枕状溶岩と、その上に整合的に重なる赤色頁岩。



巨大石英脈。黒耳にて。内部の結晶成長組織がよくわかる。



行当の砂岩岩脈。これは有名な露頭。



太平洋に陽が沈み、

太陽のあったところに光の筋ができ、

そして暮れてゆく。巡検中のひとこま。



室戸岬にて。露頭猫。

室戸岬班れい岩体。

レイリーテーラー不安定を示す、と言われている斜長石のかたまり。



同僚の調査に同行させていただいた、広島県の某鍾乳洞。

水がしたたり、

そして落ちる。



研究とは関係ありませんが、高知市高須のコスモス畑は見事です。

咲き誇るピンク、赤、白。しばし浮世の喧騒を忘れます。

12月というのにまだ花が咲いているあたり、さすが高知。



もう師走ですね。なにやら慌ただしくて大変ですが、平常心でまいりましょう。
治に居て乱を忘れず、乱に居て治を忘れず。

お手紙

読んでいただける確証はどこにもないのですが、例の意見書は文科省の担当の課長さんにも直接郵送しました。以下のお手紙を添えて。

前略 


 日頃より私たちの研究活動に対するご理解・ご支援をいただき有り難うございます。

 私たちは、地球科学のさまざまな分野を専門とする若手研究者(学位取得後6年以内〜博士課程在学中)です。このたびの事業仕分けに関して、文部科学大臣副大臣政務官宛に、同封の意見書を送付させていただいたことをご報告いたします。これは、私たちが大切に使わせていただいている科学技術予算が、万が一仕分けの結果通りに縮減されれば、研究の継続が困難になるばかりか生活の危機にも直面するという深刻な現実に対して居ても立ってもいられず、大変な危機感のもとに連携して文面を練り、書きあげたものです。

 ご存じの通り、研究の世界は日進月歩の熾烈な競争が行われており、研究者としてのキャリアを歩み始めたばかりの私たちにとって、このようなことに貴重な研究時間を割かざるを得ないことは決して本意ではありません。しかし、私たちの中には、既に来年度の契約非更新や、給与の減額を上司から示唆された者もおります。同じ道を歩み、互いに切磋琢磨し合う優秀な同志がこのような苦しみに直面し、明日は自分の身にも同様のことが生じるかもしれないこの現状に、私たちの誰もが耐えることはできません。所属機関や所属学協会の別にかかわらず、それらを横断して、個人ベースで研究現場の生の声をお伝えいたしたく、意見書を差し上げた次第です。

 仕分けの現場で血の滲むような努力をなされた公務員の方々には頭が下がる思いでいっぱいです。大変お忙しくされているところ恐縮なのですが、皆様方にも何とか私たちの思いをお伝えいたしたく、失礼を省みず、直接お手紙を差し上げました。
 どうか私たちの思いを汲んでいただき、来年度科学技術関連予算の安定確保に向けてさらなるご努力をしていただきますよう、重ねてお願いを申し上げます。


草々